その後、それも含めて、『ふりこめ詐欺』ってあだ名を付けることになりました。詐欺師たちは、『俺だけど…』以外にも、還付金が欲しければATMに行って振込手続きをして来いだとか何とか言って、振込みさせる詐欺の総称のようです。
!doctype>2012年3月30日金曜日
発展途上国駐在妻奮闘記: 発展途上国アフリカ駐在員と家族
2012年3月28日水曜日
Kasuga Kindergarten
教育とは…
以前にも紹介した実践的な教育哲学者、森信三先生のことばに、次のようなものがあります。
「教育とは流水に文字を書くような果かない業(わざ)である。だがそれを巌壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ」
これは特に私の心に深く残っていることばです。
流れる川の水に文字を書く、いつになれば書けるのかわからない、気の遠くなるような作業です。教育・子育てとは「明日にはすぐ成果がでる」というものではありません。土を耕し、種を植え、肥料をやり世話を続ける、そして長い年月の後、成果として実をつける、本当に長い目で見なければならない業(わざ)だといえます。
そのような果かない教育・子育てという作業に、真剣に取り組む。果かない作業だから、といっていいかげんに取り組むのではいけない、岩の壁に文字を刻むような真剣さが必要だ、というわけです。
子どもの教育に対しては、「まあ、そのうちに」とか、「適当でいいや」とかそういう気持ちになりがちです。
時には反対に「あんたは何回ゆうてもわからへんな!」、こういうことばが思わず口をついて出てしまいます。
成果がすぐに見えないためにいいかげんになったり、焦ってしまったり。
私たちも園児の成長を考える時、「焦らず長い目で見る、今日明日という短い期間で結果を求めるのではない」ということをいつも意識しつづけています。
「流水に文字を書く」のが子育てという業だ、そんな風にこころがけていただければまたお子様への接し方が変わってくるように思います。
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お宮さんの「いわれ」
今回は趣向を変えて幼稚園の隣にあるお宮さん、西院春日神社のいわれについてお話しましょう。
この神社ができたのは、平安時代のはじめ、天長10年、西暦でいうと833年。当時の淳和天皇が、位を譲られこの西院に「淳和院」という離宮をつくられた時、守り神として奈良の春日大社の神々をまつられたのが始まりです。
淳和院はその後廃れてなくなりましたが、神社だけは現在まで絶えることなくこの地にまつられてきました。
さて、お宮さんにはいろんないわれや信仰があります。いくつかご紹介しましょう。
つい先日、京都新聞の記事にもなりましたが、淳和天皇の皇女、崇子内親王の疱瘡を治したという霊石、「疱瘡石(ほうそういし)」が見つかりました。この石には、内親王が疱瘡にかかられた時、祈願されたところ、代わりに疱瘡を生じた、そしてたちどころに内親王の病が治った、という故事があります。
それ以後皇室はじめ人々から「病気平癒の疱瘡石」と信仰を集めて拝まれ、都に疫病がはやる前には必ずこの石の表面がぬれたそうです。
明治時代以降、その行方がわからなくなっていたのですが、今回ある書物の記述から「内陣(社の中)」にあることがわかり、今後一般に公開することになりました。
また、境内に御神木の「梛(なぎ)の木」があります。他の木と違い、葉脈がたてに通っている珍しい木で、この葉は災難除けのお守りになります。
また、「女人、鏡の下に敷けば即ち夫婦の仲、むつまじきとなり」、つまり夫婦仲がよくなる、といういわれもあります。お試しください。
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電車で景色を見る時は…
私が子どものころ、こんな風に教えられました。
「電車の中から外の景色を見る時は、必ず靴を脱ぎなさい」
というのは、もし前に誰かが立たれたとき、靴を履いているとその人のズボンやスカートが汚れるかも知れないからです。みなさん方はいかがでしょう。こうは教えられませんでしたか?
私は、これは常識だと思っていましたし、今でもそう思っています。そして誰もがそう教えられてきたものだと信じていました。
ところが、そうではない、と知って驚きました。今、電車に乗っていて、靴を履いたまま外の景色を見ている子どもに、「靴をぬぎなさい」と注意をすると、隣にいる母親が、うちの子育てに口を出すなといわんばかりににらみ返し、
「そんなん、自由でしょ」
などということがあるのだそうです。
「おじさんが怒らはるし、あんた靴脱ぎ」
というのはまだましな方らしいのです。「おじさんが怒らはるし」ではなくて「すみません、気がつかなくて…」でしょう、間違っているのはこの親の方なのですから。
「何の権利があってうちの子を叱らはるんですか」とか「うちの子育てに口出さんといてください」、こんな言葉が親から聞かれるようになった昨今。これも自由や個性や権利という耳障りのいい言葉の上っ面だけを理解していることによる弊害なのでしょう。
自由は「規則」をまもることによって、個性は「基本」があって、権利は「義務」を果たすことによってこそ成り立つ、このことを私たちは忘れてはならないといつも考えています。
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「ほめるつもり」でいてください
「先生、うちの子、ほめるところなんてないんですよ」。
たまにお母さん方から出るこの言葉。でもそんなはずはありません。実際、お子さんと私たち、一年前と比べてどちらが成長したでしょうか?
保護者のみなさまや私たち大人は、せいぜいしわが1本増え、体重が増えて…というぐらいではないでしょうか。それに比べて子どもたちといったら身体的な面、知識、言葉の数、運動能力などあらゆるところで大きく成長しています。
要するに、その日々の成長を大人の側が見つけられないだけなのです。
そして、いつもお願いしているように、子どもをほめて育てていただきたいのです。
「でも思わずしかってしまいます」とおっしゃることでしょうが、私は「絶対しからないでください」とお願いしているわけではないのです。ただ、「子どもをほめよう」と「意識」していていただくことが大切だと思うのです。その気持ちを持ってしかった時とそうでない時とはお子様への伝わり方がまったく違ってきます。そして、「しまった。今のはしからなくてもよかったのに…」と反省されることもとても大切なことです。
「お母さんが子どもをほめようと意識されているのとそうでないのは本当に大きな差があるね」、
職員といつも話していることです。
「園長先生、ぜひこのことを保護者の方に伝えてください」、
今回は主任教諭、橋上のこの言葉でテーマが決まりました。
「子どものいいところを見つけてほめよう」と、改めて意識して、「ほめるつもり」でお子様と接していただきたいと思っています。
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「理屈ぬきに…」を大切にしたい
ひとりの文化人を囲んで、いまどきの女子高生数十人がディスカッションする、というテレビ番組がありました。
くわしい内容はほとんど覚えていないのですが、あるシーンだけが鮮明に記憶に残っています。
そのとき出演されていたのは瀬戸内寂聴さんでした。
話題が「援助交際」におよび、ある女子高生からこんな声があがりました。
「そんなの、自分の体なんだからさぁ、どー使ったって自由じゃん、誰にも迷惑かけてないしぃ」
会場のほかの女子高生からは拍手と喝采がわきおこる。私は、瀬戸内さんがどう応えられるか、と息をのんで画面を見つめました。
が、その答えは今ひとつ判然としない、「親に生んでもらった体、自分だけのものというのは間違いよ、大切にしないとね…」とかいうような抽象論に終わりました。
私は瀬戸内さんを責めるつもりは毛頭ありません。なぜなら浅学非才なこの私、同じことを投げかけられたらもっと答えに困るからです。「そんなもん、キミら、あたりまえやないか」といって言葉につまるぐらいが関の山です。
それは「理屈以前の理屈ぬき」の問題だからでしょう。なぜ挨拶をするか、親切にしてもらったらなぜお礼を言うか。こんなことはあたりまえのこと、理屈ぬきのことです。
カビのはえた常識論を振り回すつもりはありませんが、あたりまえとして身につけておいてほしいことはあたりまえに身につけておいてほしい。
「そんなんしたら神さんがバチあてはるで!」
こんな言葉が「不合理」と、ひとことで片付けられない世の中であってほしいものです。
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「生活の四大原則」解説
毎朝、元気に挨拶したあと、子どもたちと一緒に「生活の四大原則」を読んでいます。
1 挨拶をする。
2 返事はハイとはっきり元気に。
3 靴は揃える。靴箱に入れる。
4 立ったら椅子を入れる。
これは森信三先生という偉い実践哲学者の言葉を拝借したものです。森先生は3と4を一緒にして、「しつけの三大原則」とされているのですが、かすがようちえんでは分けて使っています。
この「四大原則」。簡単にまとめられていますがなかなか意味の深いものなのです。
まず、1の「挨拶」ですが、これはいうまでもなく、人間生活の基本、人と人とのつながり、コミュニケーションのきっかけですね。挨拶がしっかり元気にできる、これは基本中の基本でしょう。
次に2の「返事」。人の話を聞く、人の呼びかけにはっきり答える。挨拶についで大切な態度です。
「なに?」「はぁ?」、こんな返事では人の話を聞く態度は到底できません。
次の3、「靴は揃える…」。日本では靴を脱ぐ、はくというのは内と外のけじめです。靴を揃えることによって「内」と「外」の気持ちのけじめをもしっかり身につけることになるのです。
最後に4、「立ったら椅子を入れる」。椅子を入れる動作は立つ、座るの切り替えです。このことで「動」と「静」の気持ちのけじめをつけることになるのです。
森先生は「これだけをしっかりしつけられれば他のことは自然と身についてくる」とおっしゃいますが、説明を聞くと「なるほど」と思わされるものがあります。
どうぞご家庭でもこの四大原則、実行してみてください。もちろん大人も一緒に、です。
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やる気に水をささない
パナソニックの創業者、松下幸之助さんは私の尊敬する人の一人ですが、彼の言葉に
「出鼻をくじくな、やる気に水をさすな」
というものがあります。
創業前に勤めていた会社で、苦心に苦心を重ねて作り上げたソケットを、
主任に「ダメだね」と一言で片付けられ、悔し涙を流した松下さん。
彼はそんな経験もあって次のようなことを心がけてきました。
「事業を起こしてから、従業員のやる気を尊重し、たとえば、何かを命じるときも、
『このようにやろうと思うのだけれども、君はどう思う』と、部下の自主性が加わるように
導いてきました。
松下は、『人間というものは、もともと働きたい、人のために役立ちたいという気持ちをもっている。だから部下に働いてもらうコツの一つは、部下のやる気に水をささないこと、つまり部下の自主性に従いつつ導くことだ』と言います。(中略)『出鼻をくじくな』ということは晩年の松下が幹部にたびたび訴えていたことでした。
企業だけでなく、家庭における子育てにも大切な心得ではないでしょうか」(PHP谷口全平氏)
いつもお話しているとおり、幼児期は人格形成の上でとても大切な時期です。
この時期に、両親をはじめまわりの大人から、出鼻をくじかれず、やる気に水をさされることなく
上手に導かれた子は、きっと前向きで積極的な子どもに育つことでしょう。
さらには同時に「思いやりの心」をしっかりもった子に育つに違いありません。
なぜなら松下さんがおっしゃるように、人間がもともともっている、
「人のために役立ちたい」という気持ちをも育てることになるからです。
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夏休み中の今月は、「文部省がようやく『自由保育』の弊害を認識し始めた」、という内容の新聞記事を紹介します。
少し長いのですが、じっくり読んでみていただきたい内容です。
幼児期の「道徳教育」やしつけの大切さは何度もこのコラムの中でもお話してきました。
本当に「ようやく」という印象です。
これを機会に今まで「自由放任・わがまま助長保育」を行ってきた幼稚園が、誤りに気づき、その保育を改めてくださることを心から望んでいます。特に京都は保守的で、「自由保育幼稚園」が多いものですから。
平成12年7月26日 産経新聞「主張」欄より
「幼稚園教育」 間違い多かった自由保育
文部省の幼児教育に関する研究班は幼稚園教育について、従来の「自由保育」を強調した考え方を改め、「道徳性の芽生え」に重点を移した中間報告をまとめた。
過去の誤りを認め、軌道修正した点を評価したい。
自由保育の考え方は、平成元年に改定され今年3月まで施行された旧幼稚園教育要領に盛り込まれていた。
幼児の主体的活動を促す教育をうたい、自発的な遊びや一人ひとりの特性を重視したものだ。
だが、幼稚園教育の現場では、その自由保育が行き過ぎた結果、園児が好き勝手にふるまう傾向が強まったと云われる。
机の上に乗ったり、階段の手摺りを滑ったりしても、注意しない先生が増えた。ブランコや滑り台でも、園児が順番を守らなくなったという。
こうした態度が小学校に持ち込まれ、学級崩壊の一因になっていることを多くの教育関係者が指摘していた。
中間報告は自由保育について「一部の幼稚園では、その趣旨を誤解して幼児を放任する保育が行われた」としたうえで、4月から施行された新幼稚園教育要領が求める道徳性の芽生えの重要性を改めて強調している。
これまで自由保育に重点を置いていた幼稚園は、出来るだけ速やかに、新教育要領や中間報告に沿って指導方法を改めて欲しい。そして、小学校とも連携し、学級崩壊などをくい止める為に力を合わせるべきである。
われわれは自由保育の教育論が求める幼児の主体的活動や自発的な遊びを全否定するつもりはない。だが、幼稚園では、集団生活のルールや善悪の判断力を身に付けさせる教育が基本である。まず、悪いことをしたら叱り、良いことはほめる。朝のあいさつや食事のマナー、先生を敬う態度も教える。主体性や自発性の育成は、こうした基礎教育を行ってからの話である。
中間報告は幼稚園に対し、「保護者自身が保護者として成長する場」としての役割も求めた。続発する少年の凶悪犯罪防止策として、「親の再教育が必要だ」ともいわれる。
保護者側もただ、わが子を幼稚園に預けっぱなしにするのではなく、保育参観や保育参加を通じ、子育てのあり方を互いに学びあうべきである。
さらに、忘れてならないのは、幼児教育の責任はまず親にある、ということだ。かつては、子供が小学校に入る前のしつけは、主として父母や祖父母が行ったものだ。
核家族化が進み、共働き家庭が増えたこともあって、昔のようにはいかないかもしれないが、もう少し、子供のしつけに熱心になってほしい。
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ある日の救急病院
昨年、あるお客様を京都駅まで迎えに行った時のこと。
階段から降りてこられるその方の様子がおかしい。同行されていたもうお一人がおっしゃるには、
「車内で急に心臓が痛くなられたのです」
そこで私は二人を車に乗せ、とある救急総合病院へ急ぎました。
救急の受付で事情を話し、すぐに診察をお願いしました。
ところがです。その担当の看護婦さんが
「あちらの何番窓口で手続きをしてください」
とおっしゃるのです。
さすがの私も「とにかく一刻も早く診ていただきたい」とお願いしましたが、
ガンとして聞き入れてもらえません。
しかたなしにその窓口へ行くと10人余りの一般外来の方が並ばれている。
隣にもう一つ受付があるのに、です。マクドナルドなら、「お並びの方、こちらへどうぞ!」という場面です。
この病院には病院の事情があって、それぞれの職員さんは一所懸命自分の職務を
こなしていらっしゃるのでしょう。病院とマクドナルドを一緒にする私がおかしいのかも知れませんが、
「心臓の具合が悪い」と救急で入ったにもかかわらず、この対応では首をかしげずにはおられません。
そういえばちょっとした風邪などでも1時間以上待たされる、ということもざらにあります。
何事もサービス優先するべきだとは思いません。しかし、どうも「こちらは診てやっているんだ」
という意識が伝わってくるときが多くあります。
常々私は職員に、決してお子様を「預かってあげている」という意識ではいけない、
「預けていただいている」という気持ちでいなければならないと話しています。
それでこそ保護者のかたも「預かってもらっている」と感じていただけるし、
そこから信頼関係も築いていけるものだと思うのです。
「殺人ゲーム」の影響Copyright(C)2000 by KASUGA KINDERGARTEN. All right reserved
「一度人を殺してみたかった」
その動機自体にみなさんも驚かれたことでしょう。しかし私は今後、この種の考えられないような事件がどんどん起こってくると思っています。
その要因は家庭でのしつけ、幼稚園や保育園また学校教育、さらには社会環境などにあると思いますが、それにもまして大きな影響を与えているのが「ファミコン」や「テレビゲーム」だと考えています。それも殺人や格闘の要素のあるものの影響は甚大でしょう。
以前、「大変精密に出来ている脳にもひとつだけ"欠陥"がある」とお話したことがあります。
一例を挙げましょう。梅干を想像しただけで唾が出てくる、誰しも経験のあることです。つまり脳の「欠陥」とは「実際に体験したものと、想像したものとの区別ができない」ということなのです。
この「欠陥」をよいほうに使っている例がいわゆる「イメージ・トレーニング」と呼ばれるもので、スポーツ選手などが行っているという話はよく耳にされることと思います。
ところが「殺人・格闘ゲーム」も、繰り返し遊んでいるうちに、そのイメージが潜在意識の中に深く入りこみ焼き付いていってしまいます。一種のイメージ・トレーニングを知らず知らずのうちにやってしまっていることになりかねないのです。殺した相手がリセットボタンでまた簡単に生き返ってくる。ヴァーチャル・リアリティー(仮想現実)の世界とリアリティー(現実)の世界がごちゃまぜになって混乱してしまったとしても仕方ありません。
とくに人格の基礎づくりの幼児期にはこの手のゲームは避けてほしい。余計なお世話と言われようと、これは私の心からのお願いです。
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小刀の使い方
小学生のころ、父と竹とんぼをつくった記憶があります。確か「竹とんぼ手作りキット」のようなものだったと思いますが、小刀を使ってひごを削ったり、羽根の部分を削ったり。
作っていくうちに指を切ったりもしましたが、「こう持って、親指で押すようにするんや」などと父に教えてもらいながら、だんだんと小刀の使い方がうまくなり、指を切ることもなくなってきました。
現在の教育の現場を考える時、私はいつもこのことを思い出します。
何か問題が起こった時、
「これが原因だから、その原因をなくせばいい」
という発想だけで処理しようとすることがとても多いように思われるのです。
たとえば小刀で作業中に誰かがケガをした。保護者の方からクレームが来る。
「じゃあもう小刀を使う工作はやめよう」
という短絡的な発想です。
私はこれでは本当の「教育」ではなく、単なる責任逃れの「運営」になってしまうように思います。小刀でケガをする子もいるでしょう。でもまず、正しい使い方をもっとうまく教える方法はないか考える。そしてケガをしないで使えるように教えていく、同時に保護者への理解を求めていく。これこそが教育のあり方だと思うのです。
教育をする側が、原因を取り除くだけの簡単な方法でリスクを避け、安全地帯に逃げ込むのはあまりに無責任に思えるのですが。
幼稚園にも、またご家庭での子育てにも同じことがいえるようにも思えます。赤ちゃんだって何度も転びながら歩き方を覚えるのですから。
水曜日15:00までの保育にあたってCopyright(C)2000 by KASUGA KINDERGARTEN. All right reserved
ご入園・ご進級おめでとうございます。職員一同心あらたにがんばります。よろしくお願いします。
さて、今年からいよいよ水曜日も午後3時までお預かりすることになりました。これは以前にお知らせしたとおりのさまざまな要因からです。
しかし、保護者の皆様にぜひぜひ分っていておいていただきたいのは次の点です。
この水曜午後保育を始めると、職員のさまざまな保育準備時間にしわ寄せがくる、ということなのです。実際いままで、水曜の午後にまとめて準備したり、こなしていたことができなくなってしまいます。その上、土曜日の午後に残ってやることも殆どでした。
それがわかった上で今回「始めてみよう」と実施することに全員で決めました。
というのも何より「子どもたちのため」によいこと、を最優先に考えたからです。家に帰っても「ゆとりある生活」からほど遠い「ファミコンづけ」の子どももいると聞きます。もちろん昔のように勝手に外へ出て安全に、自由に遊べる交通事情ではない。それなら少しでも幼稚園という安全な環境で、大切な幼児期の時間を過ごしてもらいたい。これが私たちの心からの願いです。
ましてやこのことによって手抜きをしようなどとはまったく考えていません。それを補うためにはどうしたらいいか、もっとよい幼稚園にするにはどうしたらいいか、を一所懸命考えているところです。
どうぞみなさま、園長の点前味噌で勝手なお願いですが、すばらしい職員に励ましの言葉をかけてやってください。時間的に無理なことも出てくるでしょうが、どうぞそこは精一杯やっていてのこととご理解いただきたいと心から願っています。
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ひらがなのほうが簡単?
幼稚園ではもちろん、小学校一年生でもまずはひらがなから。それが国語の常識になっています。
私たちの子どものころもそうでしたね。そして文字を読むのと書くのを同時に教えられました。
たとえば「白」という字を「しろ」と読むのだということと「白」と書くことは同時に教えてもらいました。これを「読み書き同時教育」といいます。
でも、本当は読む能力と書く能力はまったく別もの。みなさんも読めはするけど書けない文字がきっとあるはずです。「ゆううつ」なんていう字、書けますか?でも読むことはできるでしょう。
漢字というものは記号なのです。子どもにとっては分解された文字である「ひらがな」より、そのもの自体で意味を持つ「漢字」の方がおもしろくて覚えやすい。「やま」より「山」のほうがイメージしやすいのです。大人でも同じです。ためしに次の文を読んでみてください。
きしゃのきしゃがきしゃできしゃした。
どうです、まったく意味がわかりませんよね。それを漢字まじりで書くと、
貴社の記者が汽車で帰社した。
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